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ワルターで聴く、年末第9 [ブルーノ・ワルター (cond.)]

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 今年の年末に聴く第9は、ブルーノ・ワルターと決めた。

 ワルター・ファン以外には評判のけして良くない、コロンビア響とのステレオ録音である。

 思えば、私が一番最初に聴いた第9こそ、ワルターの演奏だった。

 中学生時代に、近所に住んでいる秀才がクラシック音楽のファンだった。

 私の知っているベートーヴェンはといえば、「運命」、そして「歓喜の歌」だった。

 「運命」はカラヤンで、そして第9もカラヤンで、カセット・テープに録音してもらったものを来る日も来る日も飽きもせず、聴いたものである。

 友人が録音してくれた第9がワルターのものだったというのは後になってわかった。

 ワルターの振る第9は子供ながらに不思議な音楽に感じた。

 何か荘重な、宗教的な儀式のような、それでいて終結の楽天的な乗り(つまり、プレスティッシモ)に拍子抜けし、不思議な印象を受けた。

 カラヤンやバーンスタインの演奏、さらには高校で出会ったフルトヴェングラーの強烈な呪縛によって、私は長い間、ワルターの第9を過小評価してきた。

 しかし、最近聴き直してみて、「はっ」とするような印象を受けた。

 一楽章から瑞々しく新鮮なデリカシーがあり、純音楽的で、どこまでも透明な響きが聴かれる。音楽は激しくなるが、けして耳をつんざくような、聴く者をその魅力によって縛り付けるような音楽はない。

 どこか優しさを感じさせる、それでいて意味を感じさせるのだ。コーダの金管の新しき時代の始まりを告げるような霊感に満ちた響きには驚かされた。

 二楽章のスケルツォも翳りの濃い、打楽器のよく効いた演奏である。細部に至るまで目が届き、深沈たる独特のムードがある。トリオはワルターならばもっと豊麗に歌えるだろうに、主部とのバランスを考えて、牧歌的な色を薄めている。

 三楽章のアダージョの歌は、やはり美しい。フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団の演奏に匹敵するような神々しい演奏はこの世に存在しないと思うが、このひたすら幸福に浸るような演奏には格別の魅力があって、生を長らえれば長らえるほどに目にすることになるこの世の無常、苦しみ、残酷さ、汚さを忘れさせてくれる。何だか、明日が来るのが楽しみで仕方がなかった子供時代の至福に似ている。

 終楽章はコロンビア響との演奏ではなく、ニューヨーク・フィルとの演奏である。合唱団をビヴァリー・ヒルズにまで呼ぶことはできなかったため、単身ワルターがニューヨークへ飛んだのだった。

 オーケストラだけの序奏部こそ気迫が漲り、スケールが大きく、立派である。これだけがっしりとした演奏も少ないだろう。独唱と合唱が入ると、むしろテンポは遅くなり、ドラマティックに解釈していくというよりは、ひたすら格調高く、オラトリオのように演奏されていく。合唱の人数が少ないため、重唱のようなハーモニーになっていることもなおさら宗教性を高めている。

 欲を言えば、コーラスにもう少しだけ厚みと独唱者がもっと良ければ、さらに感動的になったことだろう。しかしながら、35DCシリーズ(最初期盤)で聴くならば、物足りなさは少ない。

 ワルターのベートーヴェンには厳しさが欠ける、という評価もあるが、私にはそれがたまらなく魅力に感じる。ベートーヴェンは何も人々を叱りつけたり、哲学的な思索に誘い込んだり、感情の昂ぶりによって聴く者の心を捕らえることだけを考えていたわけではあるまい。

 ベートーヴェンの善の部分、明るく、優しい感情が表に出た演奏なのだ。


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