SACDに聴くフルトヴェングラー [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]
フルトヴェングラーの遺した貴重な録音の数々がSACD化され、それも大ヒットとなった今年。
はじめは懐疑的だったSACDによる高音質化の効果も、時間をかけて聴き比べるうちに、
得心するようになった。
もちろん、ライヴ録音やSPなどの音源の古いものは、EMIに良質な素材が残っていないのか、
あまり効果が見られないとの評判である。
私はSACDの購入は、
①公式のセッション録音であること
②ウィーン・フィル(あるいはバイロイト)であること
を優先して決めた。
ベートーヴェンの「エロイカ」などは、既存の板起こし板(DELTA)に比べて、格段にリアリティーがあり、
弦の質感なども往年のアナログ・サウンドといった趣である(ビンテージ・サウンドとは違うが)。
7番なども、日本フルトヴェングラー協会のSP復刻やDELTAで耳にしてきたが、
もはや、ぼやけた音でしかない。
7番が本当に新発見のテープかどうかは微妙なところがあるとしても、コンディションが良く(3楽章の音の荒れがない、など)、音の立体感、張りと艶、ぎっしりとしたハーモニーには魅了される。
オペラも出たが、「フィデリオ」は超優秀録音で、目が覚めるような思いだった。
反対に、「トリスタンとイゾルデ」はやはりヴェールの向こうの秘め事といった音質。耳馴染み良い穏やかな音ではあるが。
今後、アナログ・マスターから次々と往年の名盤が復活するようだが、
私としては過度なノイズ・リダクションを行わない(というか行わないほうが良いかも)、
音質をいじくらず、そのままの音を再現するような姿勢を望みたい。
クレンペラーなど、本当に楽しみです。
1950年録音、ベートーヴェンのSym.7の謎 [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]
2011年に突入してからの、EMIによるフルトヴェングラー新譜ラッシュは、
巨額な負債を抱えてアメリカの企業に買収される前の英断なのかもしれない。
企業買収によって、音源の扱いがどうなるのか(良くなるか、悪くなるか)はわからないからだ。
廉価盤BOXの売り上げも好調なようである。音質もけして悪くないし(75点?)、SACDとは
雲泥の差ではあるけれども、若い人に聴いてもらいたい。
個人的には是非シューリヒトやクレンペラーのSACD化を求めたいところです、はい。
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で、件のベートーヴェンの7番のことだが、既存のCDよりも、音質が良く、
3楽章の音の歪や不安定さもなく、キンキンした感じもなく、伸びやかでとても気に入っている。
ただ、4楽章にはやはり、女声が混入しているように思う(shin-pさんのHPに詳しい)。
この女声は、マスター・テープからSP用メタルが作成される際にはなかったもので、
SPからLP用のマスターが作成された時に混入したのが事実関係だと思われている。
しかしながら、日ごろお世話になってるフルトヴェングラー関係のサイトによる調査によると、
EMI側の見解はこうである。
「フルトヴェングラーのベートーヴェン7番の4楽章、約3分過ぎの音声につきましては、ARSより再度回答が届きました。
それによりますと今回新発見した磁気テープにもやはり女声は存在していたようで、リマスター作業の中で取り去ったようでございます。
2種類の素材が録音時に収録されたようで、初発の78回転SP用のメタル作成のために作成されたAテープが過去にあって、
おそらくバックアップ用と思われるBテープが今回発見された素材だということです。
録音時になぜその女声が入り込んでいたのかは謎のままですが、
録音時の素材からSACD用にリマスターし、その素材に存在していた女声を取り去る作業を行ったというのが事実関係となります。」
うーん、するってぇと、最初から混入してたってことかにゃ??
しかし、SPからの復刻音源だと女声は混入していない。
???
???
SPの音を聴いたことはない。
私の推論だが、今回の音源は演奏時の最初のマスターではない。
従来盤と同じマスターの、世に出なかった保存版ではなかったか?
SP盤の切れ目の間が不自然という見解もあるが、
それが原因で世に出なかった音源ではなかろうか???
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こういうことを書くと、クラシックを普通に楽しんでいないと思われるかもしれませんが、
ちょっとした推理ゲームをしただけですので、念のため!
フルトヴェングラーのSACD [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]
巨匠フルトヴェングラーの生誕125周年を記念して、EMIは音源のリマスターとSACD化を計画、
2011年1月19日に日本のみで発売されることになった。
その数日前に発売されていたThe Great EMI Recordings Boxは、今回のSACD用のマスターをCDにプレスしたもので、こちらも一定の評価を得ているようだ。
CD層で聴くリマスターの音は、ベートーヴェンに限って言えば、なかなかのものだと思う。
世評の高いTOCE7530-4の音が好きではないので、今回のリマスターは音により芯があり、彫りの深い表情がくっきりと聴き取れるようになった。
音色感はあまり感じられないし、臨場感や空気感はノイズ・リダクションによって失われている感はあるが、EMIに残っているマスター・テープは健在だということをうかがわせる音質に仕上がっている。
セッション録音の1番、3番、4番、5番、6番は特に出来が良い。
そして新発見と噂されている7番のマスター・テープ。これはLP用に作られた際の別マスターに過ぎないようで、終楽章の女声が混入している(除去の後が感じられる)。
しかしながら、従来あった3楽章の音の濁りや打楽器の残響の不自然さなどはなく、鮮度は上がっていると思う。伸びやかになり、演奏がより楽しめるようになったのだ。
一番残念なのは、第9である。1楽章に顕著に感じられるポイントだが、ステージ上での物音、観客の咳など、そういった雑音は細心の注意を払って除去されているのだ。
そうすることによって、会場全体の張り詰めた空気感や聴衆との感動の共有は期待できない。
演奏自体の音質も若干こもった印象を受ける。ただし、音自体の細かな情報量は上がっており、たとえば終楽章最後の部分はずっと自然に仕上がっている。
以上の感想はCDに限ったことで、これを踏まえれば好き好きの問題でTOCE7530-4に匹敵するリマスターだと感じる。第9に関して言えば、TOCE7530-4のほうが違和感がなかった。
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今回のテーマはSACDである。
当方の所持している再生装置はおもちゃのようなものであり、ゼンハイザーのヘッドホンHD650と
マランツのSA8004という普及品である。
このような安物のオーディオでも、SACD化のメリットを痛く感じ入った。そして、CD層だけ聴いていても話にならないことを。
全体の印象としては、ぐっと音像の広がりが増し、全ての楽器の存在感が増す。弦の衣擦れのような音はしゃきっと締まる。フルート、オーボエ、ホルン、といった管楽器たちの響きは一層クリアになり、高・低のバランスも最上のものになる。
さらに、細かい表情がはっきりと伝わるようになることで、今までとは違う印象を受ける箇所もある。
たとえば、エロイカの三楽章。こんなに彫りの深い表情だったかという印象。もちろん、初期LPでもそれは聴き取れるかもしれないが、落ち着いて耳を澄ますといろいろなことが語りかけてくるような感じなのだ。
音色にも変化がある。音自体がムジークフェラインの響きを光彩のように秘めており、ぬくもりと滑らかさがあって、うっとりするほどだ。
初期LPからの板起こしに分があるとすれば、それは当時の臨場感とか雰囲気であり、音自体の原音忠実度はSACDが上であると言わざるを得ない。
今回のリマスター作業は個人的には感心しない。Auditeがやったような、巧妙なリマスタリングによって演奏音以外の「雑味」をきれいさっぱり洗い流し、素材の「生の味」だけを大切にしようとする姿勢。
しかし、年代もののワインから雑味をとったら、結局そこにあった複雑な味わいの何パーセントかは確実に失われるはずだ。
第9も既存のCDに比べて、かなりの情報量がある。それでも、ノイズカットをしなければ、さらに臨場感があったろうにと思えてならない。SACDレイヤで聴けば、不満はあまりないけれども。それでも、である。
もし望めることがあるとすれば、ノイズカットは不要。マスターから取り込んだ音源は何のフィルターもかけずに(最低限度のイコライジング程度は必要か?テープの磨耗や伸びによる音程のばらつきを抑えるなど)、そのままSACD化してほしいということである。
仏フルトヴェングラー協会の新譜を聴く (SWF 091) [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]
残念ながら、当盤はフルトヴェングラーの権威たる協会が作成したCDとはとても思えない。
もともと、この2番(フルトヴェングラー唯一の録音)、8番(ストックホルム・フィル)は録音が劣悪で、がさがさとした雑音の中で、演奏の輪郭だけしか捉え切れないような、そんな音源である。
もっとも、いくつかのCDで聴けば、たとえば2番ならば、IRON NEEDLE (IN-1421) で聴けば、ウィーン・フィルの爛熟し切った艶のある響きは楽しめるし、CDも初期のものであれば、8番も演奏のニュアンスをぐっと感じやすくなる。
しかしながら、日ごろの観賞用としては敬遠している。いくら、フルトヴェングラーでも。
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昔、こんな経験をした。
NHKでムラヴィンスキーによるシューベルト(「未完成」)とショスタコーヴィチ(5番シンフォニー)が放送された。
司会は故・黒田恭一氏で、新発見の映像だと述べられていた。
私の恩師は、その映像をヴィデオで3倍速かなんかで録画。
見てみると、すさまじいびりつきとヒステリックな音。電子音でビービー鳴っているような感じ。
でも、演奏の様はまさに感動的で、見入るうちに、普通のシューベルトもショスタコーヴィチも聴きたくなくなった。
ムラヴィンスキーならどうかとCDで聴いてみたら、これも満足できず。大人しい演奏。
すなわち、凄まじく劣悪な音で聴いたせいか、変に凄みを増し、シューベルトが何か恐怖映画のようなショッキングなものに変わったのだ。
まだ思春期の学生だった私は、「シューベルト、すげえっ!」って思った。
思春期の、心のナイーヴな部分に(こういうこと自分で書いていてゲロゲロですが)、ざっくりとその衝撃が植えつけられる。
こういうのを聴くと、美観が損なわれる可能性があるらしい。
科学的根拠はない。ただ、未だに私はその影響をひきずっていて、シューベルトの「未完成」はムラヴィンスキーの東京ライヴ (ALTUS) でなければ、受けつけないくらいだ。
これは、その劣悪なヴィデオで見た印象に近い。でも、何かが違う。
そういうわけで、モノラル録音、それも状態を悪いのを聴いていると同じように耳がおかしくなる気がしてならない。
少しでも良い音で、少しでもリアリティーのある音を、と求めるのは、美観を守るためには当然の欲求と言えなくもない。
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閑話休題。
そんな折(どんな折?)、フランス・フルトヴェングラー協会が当録音のリマスタリングに挑んだという。
結果は惨敗で、リマスタリングの担当者の感性を疑うものだった。
極めてステレオ・タイプなリマスタリングが行われている。
ノイズをコンピューターでカットし、表面的に聴きやすくする。それによって、楽器の音色(ねいろ)やホール・トーンも除去、次に、低音がややだぶつくので、低音もばっさりカット。高・低のバランスを良くし、こじんまりとまとめ、スケール・ダウン。
文字では音をたとえ辛いので、初の試みとして、擬音でお届けしてみます(←悪ノリ)。
ティンパニ、ポンポンポーン(軽い)、ヴァイオリン、シャカシャカシャカ(乾燥肌)、チェロ、ギュッギュッギュッ(滑りが悪い)。管、ピーピーピー(え、楽器?)。付録として、奥行きなしのまったり平板な空間。
・・・。シロウトの私でも、これはいくらなんでもひどかねえか、と思わせる代物じゃ。
きっと、私の耳が悪いのでしょう。あるいは、安物の装置が悪いのでしょう。高級オーディオで鳴らせば感動的なのでしょうか。今度、マイミクさんのご自宅で鳴らさせてもらいましょう。
今のところ、買って損した。
一消費者の小言です、あくまで。
風呂入って、寝ます。
Deltaによる「第二世代復刻」のエロイカ [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]
一楽章から二楽章までは、最高の一言である。
初期LPで聴く、巨匠1952年のスタジオ録音「エロイカ」がこれほどまでに純粋な演奏だったとは!
今まで聴いていたのは何だったのだろう。もちろん、CDにするとデジタル臭が増し、本当のLPの味わいは消し飛んでいるのだろうが・・・。
一楽章冒頭。精神の音しか感じさせない例の二発の爆発が、ウィーンの森に木霊するような幽玄の響きさえ感じさせる。
弦の柔らかでいて、絹織物のような繊細な音。高音は香炉がたなびくように、上へ上へと抜けていく。主題掲示。盛り上がっても音はけして濁らない。
高低の分離、楽器の分離が生々しく、一瞬細身に感じられるかもしれないが、余分な着色が一切ないのだ。
清らかな泉がこんこんと湧き出てくるような輝きと言ったら良いのだろうか。何とも形容し難い美しい輝きがあり、そこに管楽器奏者たちの名人芸が繰り広げられる。
どこまでも澄み切り、透明感さえ感じさせる。フルトヴェングラーの芸術は全開していることを実感させる。
フルトヴェングラーは楽しくて仕方なかっただろう。ウィーン・フィルの無上、夢に聴くようなアンサンブルを前に、タクトを振りながらも、嬉しそうに聴き入っている姿さえ夢想する。
打楽器はだぶつかず、すとんと下に抜けていく。細かい走句の何気ない一瞬に、万感の思いを聴くようですらある。
装置によっては、高音が良く出るのできんきんする嫌いもあるかもしれないが、たとえばコーダのエレガントな弦のひらめきなどはムジークフェラインの夢のような残響と相まって真に美しい。
二楽章も同じことが言える。弦の表情、ニュアンスの多彩さが、より如実に味わうことができる。意味深い低弦のうねり、盛り上がりでの有機的な響きなどはフルトヴェングラー芸術の一つの頂点だろう。
抑制されたドラマから、かえって深遠なものを予感させるという、形而上的な演奏を展開している。
スケルツォの冒頭、例の英雄の心のざわめきを伝えるような弦の刻みが、人間が弾いていることがはっきりとわかるほどに臨場感がある。盛り上がりでは、いささか音が荒くなってくるが、LP板起こしの限界。これは諦めるしかあるまい。
トリオのホルンはまろやかで、本当に美しい。ベルリン・フィルとの演奏ではこうはいかない。詩情がないと言ったら失礼だろうか。ウィーン・フィルのは水彩画であって、ベルリン・フィルのは油絵である。
終楽章は音が悪くなる。濁るとまではいかないが、音の抜けが良くない。前楽章までと比べて、音の輪郭がぼやけ、弦の繊細さに欠ける。そして、擦れるようなノイズによる音の荒れが気になるようになってくる(もっとも、これはヘッドフォンで試聴するからである。どうしても除去しきれなかったノイズが耳につくわけだ。スピーカーで再生するならば、すっきりと聴くことができる)。
それでも臨場感は抜群だし、数々のCDで聴かれた「ポコっ」という異音もない。ハーモニーはただひたぶるに美しく、虹色を基調として、夢幻に煌く。
コーダ。ホルンがオン・マイクでバランスが悪いことがはっきりとわかる。音空間が窮屈に感じられる。それでも音を割ったホルンの強奏は聴く者をわくわくさせ、胸を熱くさせる。
良い音楽を聴いたという思いで満たされた。このような演奏を聴けることは、幸せなことである。
このCDは、初期LP(ドイツ盤)からの板起こしであるが、ノイズを手作業で除去しているため、ノイズ少なく音楽を楽しむことができる。それに、完全なモノラルであり、擬似ステレオなどによってふやけた音になっていないことが大きい。
しかしながら、最初期CDであるCC30シリーズの「エロイカ」も、センスある仕事であることがよくわかった。
デジタル処理をした人物は相当に耳の確かな人間であり、Deltaを聴いた後に、聴き比べをしても抵抗感がなく、終楽章はむしろデジタル・リマスターのほうが聴きやすいと感じた(ヘッドフォンで聴く場合)。特に、コーダの分離が良く、オン・マイク気味のホルンとも違和感がない。ポコ音がなく、これにDelta盤に聴く極上の詩情があれば、完璧だったのだが。
トータルではDelta盤が今後のスタンダードになるだろう。特に一楽章から二楽章にかけては絶品である。しかしながら、(ヘッドフォンで聴く場合)終楽章に関しては今だに東芝EMI初期CDが手放せない。