徒労の休日 [雑記]
ようやく、博士論文の草稿が完成。
総ページ367ページ。さらに増えて370ページになるだろう。
指導教官にチェックいただいたものにも、まだまだ小さなタイポがあり、微修正に追われた4月初頭だった。
母語ではない言語(英語)で文章を書くことは、ただでさえフラストレーションを感じるものだけれども、一年以上英語と格闘していると、何かちょっとだけ突き抜けた感じがする。
内容的にも、従来の自分の論文が蟻のように感じられて、つくづく「何を書いてきたのだろう」という気になる。現時点での自分の力で、磨き上げ、練り上げ、考え抜いただけの成果は得られた。
もっとも、これはアルファであって、オメガではない。
まだまだやるべきことがあり、現段階での総決算というだけで、細部をつめる必要がある。
それでも、大筋の方向性、今後の自分のやるべきことはしっかりと地平線上に見えるようになった。
そういう実感を少しでも得ることができただけ、成長なのだろう。
次は公開審査と本論文提出だが、いずれも全力でやる。
とりあえずは、一段落。
今日は、久しぶりに散発し、新宿の某大型中古CD店、明治神宮、渋谷などを散策。
はっきり言って、まったくの徒労。
CD棚に群がるマニアの方々の中には、「えっ」と思うほど常識のない方がおられたり、あまりにも不可解な値段のつけ方やずさんな検盤の仕方に当惑しっぱなし。
お目当てのCDも見つからず、いくつか手にはとってみたものの、不愉快なのでそのまま外へ。
献血を呼びかけるお兄さんの言葉遣い、せりふにもぎょっとさせられ、逃げるようにして飛び込んだ紀伊国屋書店でも、面白い専門書も見つからず。
明治神宮のひんやりとした空気と自然を楽しみ、例のパワースポットに群がる人々の間をくぐり抜けて、渋谷。帰路に着くのだった。
戦士の休日とはならなかった。もっとも、草食系ですが、何か?
セルのミサ・ソレムニス、聴きたい・・・。風呂入って、ターミネーター見て、寝る。そうする。
二つのベートーヴェン:交響曲全集 (1) ドラティのベートーヴェン [雑記]
大学も夏休みに入り、学生諸君の成績評価も完了し、最近は博士論文の執筆に励んでいます。
もちろん、息抜きにはドラゴンクエスト9(DSで発売されました)をプレイしたり、美味しいものを食べたり、お酒を楽しんだり、TVを見たり、音楽を聴いたりしています。
博士論文執筆のほうが息抜きなのではないか?っというくらい(←嘘)。
でも、執筆は長期戦ですから、根を詰めることはしません。
ゆっくり着実に、そして質の高いものを書く。ドラクエではありませんが経験値稼ぎのつもりです。
研究というものは、功を焦っても何もならないことは痛いほど身に染みてわかっています。
そのためにも、今が一番勉強する機会なのかもしれませんね。研究業績などに関係なく、自分のために書く。それが博士論文なのかもわかりません。
さて、音楽のほうは、とんと聴いていません。
前回のエントリーでもご紹介したモーツァルトのミサ・ブレヴィスはちょくちょく耳にしますが、もっと他の少年合唱団でも聴いてみたい。でも、人気がないのか、CDはあまり見かけませんね。ぜひ推薦盤をご教示いただきたいところ。
そんなこんなしているうちに、7月ももう終りです。
いくつか家に届いて、じっくり全部聴いていないアルバムなどがあります。しかしながら、ちらほら選曲して聴いてみたら、思うところのあったものが二つあります。
実は、二つとも、ベートーヴェンの交響曲全集です。
今回採り上げるのは、あの名職人アンタル・ドラティによるもの。
何だか眠そうな顔をしていますけれども、きっと二日酔いなのでしょう(嘘)。
ドラティという指揮者は、kitakenは割に買っているのです。ストラヴィンスキー、ハイドンなど、聴いてみるとよく鍛え抜かれたアンサンブルに、ドラティならではのスコアの読み方がマッチして、非常に心地よいのです。
ドラティならでは、というのは、オーケストラ・アンサンブルが理路整然としており、その整理の仕方が、硬派でドライな印象を与える反面、柔和な情緒も感じさせる、というもので、自分でも何言っているんだかよくわかりません。
大体、クラシック音楽の感想を書こうとすると、だんだん自分で何を書いているのかわからなくなります。自分にわかるように書く、それがクラシック音楽の感想なのかもしれませんね。
トランペットの出し入れ、弦の合いの手、打楽器の叩かせ方、音量調整、フレージングなどが、よく考え抜かれた自分なりの指揮法とバランスで体現され、自分なりの客観的(?)演奏を繰り広げている、といえば、わかっていただけるでしょうか・・・。
で、大ブリテン島でのみ発売されたという、ベートーヴェンの交響曲全集が発売されました。マイナーなお宝を発掘!解決!タワーレコードです。
タワーレコード復刻の音質は、いまいち鮮度に欠け、先だって発売されたパレー/デトロイト響のベートーヴェン集なんて、どこが良いのかさっぱりわけワカメでした。
この全集も、どれだけマスターの音に近いのかはわかりませんが、聴いてみたら、やっぱりドラティでした。ハイドンの交響曲全集がお好きな方には、大変面白い演奏なのではないでしょうか。
ただ、非常に変な演奏です。「俺はこう読む!」という姿勢は買えるのですが、それがベートーヴェンだとかなり異色な様になっている。元来がドラマティックな人ではないので、即物的でありながら、素朴で、聴いたことがないような響きがする反面、たとえば、運命の終楽章などはふかふかになったスイカを連想させます。
思うに、音楽が求める姿よりも、ドラティ流のスコアの読み方が優先した解釈となっており、そのことがベートーヴェン云々よりも、ドラティを聴く、といった趣になっているのではないでしょうか。ハイドンではけしてそのようなことがなかったので、おそらく、ここでは何かが違ったのでしょうか。
オーケストラはロイヤル・フィルです。あのレイボヴィッツの全集でも、すかっとした快演を聴かせてくれた楽団です。ここでも、真剣に頑張っています。
私としては、ベートーヴェンには色々な解釈があって良いと思っています。このドラティのものも、ドラティにしかできないユニークな演奏として、ようやく復刻されたことを喜ぼうではありませんか。
九十九里へ、mixiオフ会に (はまぐりクラシックの会?) [雑記]
mixiで管理しているコミュニティ、「フルトヴェングラー友の会」のオフ会に参加しました。
オフ会といっても、以前お会いしたことがある方々3人だけの私的な集まりで、大規模なものではありません。
そのうちのお一方の別荘で、土・日を利用して、じっくり音楽談義に花を咲かせることになったのです。
別荘は千葉県は九十九里。海にも足を運びましたが、九十九里の名にふさわしい広大な海岸で、潮風が心地よく、時間の感覚を失うような素晴らしい景観でした。
一日目は、フルトヴェングラーの二種の第9を持参したので、高級オーディオで聴いてみることができました。
高級な装置で聴く「ルツェルンの第9」と「もうひとつのバイロイト(1954年)」、どちらもフルトヴェングラー・センターのCDです。
正直な感想として、我が家の安い装置で聴いた印象はありませんでした。
高級な装置で聴くことによって、演奏のアラやオーケストラとの齟齬(フィルハーモニア管弦楽団)を鮮明にしてしまい、妙にこざっぱりした、それでいてよそよそしい演奏に感じました。
バイロイトのものも全く感心しなかった。もともとエア・チェックの古いテープですから、録音も悪い。
四楽章で歓喜の主題がオーケストラによって盛り上がった後、冒頭の嵐が舞い戻り、ハーゲン(ウェーバー)が「おお、友よ」と歌いだすと、そこはアルベリヒたちのいる地下世界。
ジークフリート(ヴィントガッセン)が行進曲を歌っても、ちっとも明るくならない。私には「ニーベルングの指輪」の抜粋を聴いているような感覚しかありませんでした。
Testamentから出ているトスカニーニの第9のほうが(DVD)、潔しという感覚で好感を持ちました。
この日は、最初にカール・べームのモーツァルト(「プラハ」、ウィーン・フィルとの晩年のもの)を聴いたのですが、これがべームの再評価の機会となりました。いや、アナログLPの再評価、と言っても良いかもしれない。
ベートーヴェン(「レオノーレ」序曲第三番)とワーグナー(「マイスタージンガー」序曲、いずれもウィーン・フィルとの東京ライヴ)も聴きましたが、何と言っても、カール・べームの指揮が素晴らしかった。
この人の演奏はCDではわからないのでは?と思ったほど。古武士の一の太刀のような切れ味の良さの中に、ウィーン・フィルの柔らかい天上的な響きが絡められて、素晴らしい芸術を生み出していました。
80年来日の「フィガロの結婚」全曲も素晴らしかった(つまみ食い)。
その後は、クレンペラーとアラウのショパン。曲目はピアノ協奏曲第1番で、オーケストラはケルン放送響。54年のライブですが、音質が良く、ブラームスのピアノ協奏曲第3番を聴くような重さがありました。
これを聴いたら、普通の演奏は聴けまい、と思う次第です。
夕食は、特産の焼きハマグリです。ハマグリはそんなに食べたことがなかったのですが、その拳(こぶし)大の大きさと、口に入れた瞬間の海の香りに陶然。
ジョッキ三杯のビールに、アジのたたき、マグロ、イワシの刺身と舌鼓を打ち、こりゃ当分スーパーの刺身は食べられないわ・・・とこっそり思うkitakenでした。
別荘に戻ってからは、音楽談義、人生談義、天下国家を論じ、人生の大先輩のお二人とお話することで多くのことを学ばせていただきました。
フルトヴェングラーのCDとLPの比較試聴をしましたが(ハンゼンとのピアノ協奏曲と対戦中のベートーヴェン、7番シンフォニー)、LPのほうがやはり情報量が豊かだった。
アイルランドの貴重なウィスキーを飲みながら聴いたのは、ジュリーニのベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」。聖ポール寺院のライヴ録音で、BBC Legendから発売されたものです。
演奏はとても素敵なものでした。残響が豊かで、体に音楽が染み込んでくるようでした。
ほろ酔い加減で聴く上質の音楽は、思考をも恍惚とさせてくれるようで、ベネディクトゥスのヴァイオリン・ソロに昇天する思いでした。眠くなったわけではありません。
アニュス・ディも聴きましたが、「我らに平安を与えたまえ」以後はやはりクレンペラーが唯一無二だと再認識した次第です。ジュリーニは教会でしみじみと聴くにふさわしい演奏。
バックハウスの最後の演奏会もやはりLPで聴くと格別でした。それにしても、シューマンの小品二曲の素晴らしさ!
夜更けまでお酒に浸かり、翌日はやや(?)二日酔い。
その翌日に聴いたのが、ワルターでした。
ワルターのマーラーは私が至上のものとする演奏の一つです。人によっては、迫力に欠けるとか、優しさに過ぎる、とか色々嗜好の違いがあるかもわかりません。
しかし、ワルターほど、曲の美しさを古典的なフォルムで、普遍的に演奏できる指揮者はいません。
ワルターを聴けば、その造型感覚はモーツァルトやベートーヴェンと同じ規範に基づき、肥大したロマンの残滓さえない、結晶化した形式美を持っていることがおわかりいただけることでしょう(←もっとも、これが物足りない、と感じられる方もおられるかもしれません)。
コロンビアの「巨人」、「復活」、それに評価の低い「第9」さえ、名演だと思っています。古典的という意味では、50年代のウィーン・フィルとの4番も素晴らしい。昨日改めて聴きましたが、美しかった(DG、ソロはギューデンでかわいらしい)。
しかしながら、5番に関しては、40年代の録音ということもあって、未聴でした。
今回無理を言って、LPを聴かせていただいて、本当に良かった!
ブルーノ・ワルターという人は本当に不思議な指揮者で、スピーカーからその第一音がしただけで、懐かしい感情に満たされ、しばらく会っていなかった友人に出会ったような、安らぎと善の気持ちに支配されます。
他の指揮者では、まずこんなことはない。懐かしくて、優しい気持ちになるのです。
このマーラーも、聴いたことがない演奏であるにも関わらず、ワルターがどう歌い、どう語り、どう訴えるかが手に取るようにわかる。造形が古典だからです。
そして、マーラーは何ていい曲を書いたのだろう!というあたたかい気持ちにしてくれる!終楽章など、目くるめくようなロマンがあり、ちょっとこれ以上の演奏は考えられない。アダージェットもウィーン・フィルの演奏よりも素晴らしい。肌に触れるような温もりがある。
帰宅すると真っ先にamazonで調べました。
CDでは上にあげたものが現役。できることならば、この盤ではなく、輸入盤の4番とセットになったものをお薦めしたい。
これ以前のLPやCDは、二世のマスターを使っていたようで、このセットの音源はもともとのマスター(ラッカー盤)からの復刻とのこと。上にあげたものは高音が鮮明でクリアな分、硬質でメタリックな感があるが、輸入盤セットは音も柔らかく、温かみがある穏やかな音である。LPの印象に近い。
これでノイズ処理などをしなければ、もっとニュアンス豊富な音質で聴けたことと思う。
その他、同じワルターで、ザルツブルグ音楽祭でウィーン・フィルを指揮したブルックナーの9番シンフォニーを聴き(ワルターとしては非常に厳しい演奏)、ロストロポーヴィチのチャイコフスキー「悲愴」(ロンドン・フィル)で、月曜日からはじまる当たり前の日常を呪いながら、去り難い非日常的な楽しみに別れを告げました(笑)。
チャイコフスキーは朝一番に聴いたのですが、やはり二日酔い加減で、日曜の憂鬱な気持ちで聴くにふさわしく、「現実世界にさようなら」とでも言いたくなるような、ロストロポーヴィチの入魂の名演でした。CDで聴くと無機的に聴こえてしまうのでしょうか・・・。
その後は近所のおいしい蕎麦を昼食に食べ、チョン・キョンファのシベリウス、トスカニーニのムソルグスキー(ミラノ・スカラ座のライヴ。「展覧会の絵」だが、この世の終りのような演奏だった!)で、音楽の世界から舞い戻った次第であります。
お二人には心から感謝しております。また近々お会いできることを楽しみにしております。
WBC日本優勝!!! [雑記]
WBC二連覇優勝おめでとう!!
普段野球を楽しまない私も、優勝決定戦には夢中になってしまいました。
行き着けの料理屋で、遅めのランチ(鰆の唐揚げと小松菜の炒め物)を楽しんでいるときも、放送されるラジオにずっと耳を澄ます。
家に着いてからも、見たくないという母の言葉を無視。
絶体絶命、同点、韓国のサヨナラ勝ちに終わるか?という不安に、イチローがヒットを打ってくれた!
その後の日本勢のファイン・プレーは感動的だった!
おめでとう!日本!
こういうめでたい話題があると、精神もまた高揚するかのようだ。
昨日までどちらかといえば、陰にこもっていた気持ちも、どこか陽気になる。
日本の優秀さを世界に示す、っていうその意気込みが嬉しいじゃないですかっ!
今日は祝杯をあげよう(←毎晩ではないか、という母の突っ込みは無視)。
ピッチ・コントロール(ムラヴィンスキーのショスタコーヴィチ:交響曲第8番(Philips)) [雑記]
ネットには、いくつかピッチ・コントロールが可能なソフトが出回っていて、しかも無料のものが多々ある。
クラシックの貴重な音源の中にも、ピッチがおかしいとされる名盤はあり、ピッチ調整についてはいずれ取り組まねばならない課題だと思っていた。
たとえば、私の好きな盤に、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルによるショスタコーヴィチ交響曲第8番(1982,Philips)というのがある。
これは音質において若干問題がある盤なのだ。
つまり、ピッチが若干高い(「かなり高い」と宣(のたまう)方もおられるようだが、そこまで高くはない。許容範囲のレベルではある)。
若干高い、とは言っても、気になる方には気になるだろう。絶対音感がなくとも、次第に違和感を感じざるをえない(同曲異演を持っていれば)。
で、私は試行錯誤の末、自分でピッチを補正してみたわけ。
Regisというレーベルからピッチ補正盤が発売されたけれど、期待はずれ以外の何ものでもなかった。
まず、音質がこもり、劣化している。鮮明度が落ち、情報量がかなり低い。さらに、盤質も悪く、ダイナミックス・レンジも狭く、もっと言えば、ノイズ除去によって平坦な音になっている。
これは悲劇だ。
私は現時点で最高の音源と思われるPhilipsの初期CDから音源を使い、ピッチを補正して自分だけのCDを作ることにした。
ようやくわかったのは、この音源には録音上の不備があることだ。持続的(あるいは断続的)なノイズ(ブレのようなもの)が散見(聴)されるのである。
ピッチを高くすれば、これらは目立たなくなる。
ひょっとしたら、音質調整のために音程を変えたのではないかという推測さえ可能だ。
一番嬉しいのは、マスター・テープまで遡り、入念なマスタリングを施して欲しい、ということだ。DVDで出ているゲネプロの映像の音質のほうがはるかに鮮明で、ニュアンス抜群なのを聴けばそう願わざるをえまい。