トスカニーニ追悼演奏会のワルター [ブルーノ・ワルター (cond.)]
ブルーノ・ワルターが、1957年トスカニーニ追悼演奏会で旧NBC交響楽団を振った「エロイカ」を私は不滅の名演奏であると思っている。
旧NBC交響楽団はトスカニーニの死後、シンフォニー・オブ・ジ・エアと名前を改称し、自主的な運営を行なったらしい。いつまで存続していたのかはわからないし、どれだけの録音が残されたのかもわからないが、このワルターが振った「エロイカ」は永らく伝説的な名演とされてきた。
一般に流通しているのはMusic&ArtsのCDだ。私が初めてこの演奏を体験したのはこのディスクからで、聴いた後の幸福感を終生忘れることはないだろう。
昨年、日本フルトヴェングラー協会が日本ワルター協会所有の音源から復刻したCDを頒布した。これが非常に感動ものだった。
この演奏には、トスカニーニの手兵オーケストラのせいもあるのか、常々のワルターよりも素朴で直接的な迫力があるものの、ワルター特有のカンタービレの伸びやかな美しさとリズムがもたれ気味になる懐かしい人間味が調和して、ワルターとトスカニーニの長所が合わさったような特異な演奏になっている。
一楽章のシンフォニックでごつごつした造形、最強打されるティンパニ、金管の鋭さ、和音の美しさと流れるような情緒たっぷりの歌!これらが至純なまでに調和し、威厳たっぷりに展開する様はどうだろう。弦の樹脂が飛び散るようなぶつかりはとびっきり情熱的だ。これだけ音楽を格調高く立派に、威厳を持って演奏しながら、歌に溢れ、一音一音に愛のこもった演奏は滅多に聴くことができないものだ。
葬送行進曲はフルトヴェングラー以上に悲劇的な表現だ。ワルターの56年のメトでの『魔笛』、二人の武士の登場の音楽の厳しさをしきりに彷彿させる。クライマックスの打楽器の強奏は超ど迫力。ライヴのワルターは熱い。これがワルターなのだ。
スケルツォも音楽の魅力、英雄の心のざわめきが伝わってくるし、終楽章の変奏の素晴らしさは手作り音楽といった情感がたまらない。温もりを感じさせる弦の音色とともに、心にきゅんと染み入るような繊細なニュアンスにも欠けていない。コーダの堂々たる威厳、終結のディミヌエンドも哀感たっぷりの表現である。
終演後、すぎに聴衆の拍手がパラパラと起こるが、ふっと止んでしまう。これは、ワルターが追悼演奏会であることを意識して、聴衆の拍手を制したためであるという。
日本フルトヴェングラー協会が復刻したCDは、ライヴ特有の雑音もあり、ざらついた音であるが、鈍くなく、やわらかいオーケストラの音が蘇っている。三楽章と四楽章に定位の乱れがあることだけが残念だ。
これに比べるとMusic&Arts盤は音が平面的になっており、音の豊饒さも伝わりにくい。もっと良質の音源が残っているのなら、そこから良好な復刻がなされることを期待する。
この演奏の1月前にマルケヴィッチがエアー響と録音しておりまして、両方そっくりというウワサがあります。
マルケヴィッチのはハルサイゆずりのリズムのキレと大きな抑揚で、彼らしい激烈でドスのきいた名演であると思います。ワルターのこの演奏は、追悼演奏会に間に合わせるために、マルケヴィッチの造形をそのまま利用したのでしょう。無償出演だったそうですし。
当方としては敢えて同じ演奏を2枚持っていても仕方ないとおもい、確認してはいないのですが。
by gkrsnama (2010-05-23 00:54)
マルケヴィッチの演奏とそっくりだという意見を聴きますが、あのマルケヴィッチの指揮ぶりとワルターの指揮ぶりは、全く似て非なるものであると考えています。
シンフォニー・オブ・ジ・エアーの音、それからトスカニーニ好みのデッドな録音がワルターの情緒豊かな解釈をスポイルしている側面があるかと思いますが、解釈としてはコロンビア響とのステレオ録音に近いと判断します。
ちょっとしたフレーズで、あえかにカンタービレをきかせたり、打楽器を強打させる箇所がトスカニーニとは異なること、金管はトスカニーニと比べてそれほど強奏させていないことなどをとっても、ワルター好みにバランスが整えられていると感じます。
また、随所(とくに顕著なのは一楽章)でルフト・パウゼを採用しているのも、ワルターの古典作品の演奏の常套手段だと思われます。
結果的にマルケヴィッチの解釈がオーケストラに張り付いていることは想像に難くありませんが、それ以前にトスカニーニの解釈のほうが強烈に染み付いていることでしょう。
私はワルターが妥協した演奏、あるいはマルケヴィッチの演奏をそのまま利用したようには聴こえませんでした。
by kitaken (2010-05-23 21:26)