パーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンを聴く [ベートーヴェン:交響曲]
パーヴォ・ヤルヴィ。
特に興味なし。
父上のネーメ・ヤルヴィはシベリウスの交響曲、1番と6番を聴いたことがある。
ネーメ・ヤルヴィは何でも振ってヤルヴィ(「ゆらこめ」から引用)、とでも言いたげなスペシャリストであるが、ご子息も着々とレパートリーを増やし、様々なオーケストラとCDを作っている。
ドイツ・カンマー・フィルと組んだベートーヴェンの交響曲全集は賛否両論、
絶賛する人が絶賛し、酷評する人は酷評する。
私としては、そのどちらでもない。
新鮮な部分は新鮮。しかし、何もかもが新しいわけでもなく、このスタイルの演奏はすでに様々な演奏家によって成し遂げられている。
第9を聴いてみよう。
一楽章の速さ、さっぱりとしたフレージング、金管や打楽器が乾いていて、重厚さよりも小気味よさ、リズム感を重視する姿勢は、目新しいものでも何でもない。
もっと軽くて美しい演奏は他にもあるだろう(ガーディナー、ジンマン、ノリントン、ブリュッヘン・・・)
二楽章は特に何の感慨もなし。そもそもオーケストラの音色は美しくないし、激しい部分では、小型爆発を起こすだけ。フォームとしては新しい形の車のようで、私の印象としてはミニ四駆。
小ぶりでスピードがあって、でもミニチュア。ミニチュア・ベートーヴェン。
三楽章は美しくない。速いだけ。機械音楽。オーケストラの音は無機質。硬い音。
終楽章は、ヤルヴィのミニ四駆ぶりが目立つ。
どの瞬間にも、あれよこれよという焦燥感のようなものがあり、一生懸命力まず、感情をこめず、小ぶりにしているような印象。
歌手たちも歌うというよりは、つぶやく印象。ヴィヴラートをかけるのは古いのだろう。
音楽は痩せて満ち溢れず、室内楽的とも言える軽い響きの細いが時にはグロテスクな造形を見せつつ、展開していく。
終結部。一気にスピードを上げて、フルトヴェングラーを意識しているのだろうが、唐突なスピード。
ゴールに向けてラスト・スパートのようで、極めてスポーティ。
何回聴いても、何の感慨も残らなかった。
チェリビダッケと同じように、自分流儀を貫きすぎて、何がやりたいのかがわからない。
細部のこだわりはもちろんわかる。やりたいこともわからなくはないのだが、何を伝えたいのかがわからない、と言うべきだろうか。
何でも振ってヤルヴィ、全部ヤルヴィでヤルヴィ、では駄目なのだ。
ベートーヴェンを振って、何を伝えたいのですか?
そう問いたくなる演奏だった。
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