ソコロフの、ソコロフによる、ソコロフのための [魅惑のピアニストたち]
グリゴリー・ソコロフ。
寡聞にして、私は最近になって、氏の名前を耳にするようになった。
絶賛もあれば、批判もあるが、どちらかというと前者の意見が多いような印象を受ける。
それほど日本で知名度が高いわけでもあるまい。
ネットサーフィンすれば、欧州でのコンサートを耳にされて、感動を綴られている方、先に出たザルツブルグのリサイタル盤や、NAIVEから出ているセットものを絶賛されている方がおられるなぁ、という印象。
「幻のピアニスト」、などという呼称も目にし、おいおいリヒテルじゃあるまいし、と思った次第。
ユニバーサルがソコロフと契約にこぎつけたことで、この「幻のピアニスト」の新譜が少しずつ届くようになったわけか。
何だか、どことなくリヒテルを思わせる風貌といい、その特徴的な体躯といい、興味津々であるが、まずは演奏。
録音が良いと思った。
これは近年でも随分ナチュラルで、耳になじみやすい良い録音である。
バランス感覚が自然で、素直な音のリアリティ。ライヴの臨場感もきちんと捕らえられている。
先に出たザルツブルク・リサイタルと比べてみても(実はすでに耳にしているのだけれど)、それよりも広がりや奥行きを 感じさせ、とにかく音色がめっぽう美しい。
ソコロフ、何のことはない。鬼才でも変人でもなく、すごく美しいピアニズム、それもファンタジーな演奏を聞かせてくれるのだ。
シューベルトの即興曲のD899。
kitakenの好きな内田光子とは違う世界。
申し分なく、シューベルトの心の闇がひそやかに迫ってくるし、その気持ちの込め方は深刻であるものの、タッチがとにかく美しく、打鍵が濁らない。
沈潜するような、沈み込んでいくような祈りを感じさせながら、ゆったりとしたスケールを感じさせ、ロマン溢れる幻想曲をことさら印象的なものにしている。
ベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」は、これまではH・J・リムが一番の愛聴盤だった。
例の宇野功芳氏推薦の盤であるが、宇野氏が褒める前に話題になっていた頃に買った。
国内で全集される前に、安い輸入盤全集で購入。「月光」や「熱情」はオキャンな印象だったが、「ハンマークラヴィーア」は、その長大な音楽を早いテンポで、ひたすら劇的に音を尖らせつつ、進軍していくために、音楽が停滞しないでよく流れていく。だから、フーガの複雑さより、「ああ、美しいメロディーだな」という思いを抱かせてくれて、とても魅力的だったのだ。
アニー・フィッシャーも聴いたが、この二人の演奏がやっと音楽の魅力を教えてくれた印象で、ふだんは特別に愛聴していない。何と言っても、長大かつ険しい山脈のようなフーガが厳しく、日常的には近寄りがたい思いがある。
ピアノ版の「ミサ・ソレムニス」、ピアノ版の「大フーガ」とでも言うべき逸品か?
それが、ソコロフだとどうなるか。
美しいタッチと、静かに、沈み込むような絶妙な強弱変化、テンポの変遷で、とにかく音楽が優しく、うるおいをもって情緒的に聴こえる。
長大な緩徐楽章も、集中力を切らせずに、一つ一つの打鍵と向き合えるし、終楽章の巨大な伽藍も、聴くものを圧倒するというより、どこか懐かしい歌を歌っているかのような親しみやすさ。
あの牡蠣殻のような一楽章の爆発から、何の抵抗もなく、こちらは身構える必要もなく、自然に音楽が軟水のように体に浸みわたってくる。
一つ疑問を提起するならば、「ハンマークラヴィーア」には、やはりあの厳格なフーガの構造があるわけで、ソコロフのはそうした形式感が希薄である。したがって、これが「ハンマークラヴィーア」の一つの名演とはなりえても、ベストの演奏とは呼べないだろう。
ソコロフの演奏は、ベストを狙うとか、そういうものではなく、ソコロフの弾きたい音楽をソコロフの解釈で楽しむ、という感じなのだろう。そういう点では、多分に19世紀的な巨匠と言えなくもない。うさんくさいが。
なお、アンコールのラモーがとても美しくて、何て気が利いた曲を書いたのだろう、ラモーは、と唸ってしまった。