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ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」名盤探訪①:ワルター、クレンペラー、カラヤン [ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス]

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 ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」は、楽聖にとって畢生の大作である。

 交響曲第9番の終楽章、終結のプレスティッシモの後の世界、そしてカソリック典礼文という外見を隠れ蓑にして、自らの宗教観ならず人生観さえ告白している。

 磯山雅氏は、この傑作を「楽聖の私小説」として論じているが、私小説という言い方に抵抗を覚える向きは、狭い宗教曲のジャンルなどを超越したベートーヴェンの世界なのだ、というように捉えられたらいかがだろうか。

 晩年の弦楽四重奏曲群の素晴らしさを紐解く上でも、この「荘厳ミサ曲」は屈指の作品である。

 「荘厳ミサ曲」はいまいちその良さがわからない、という方も多い。

 クレンペラーで決まりでしょう、という人もいれば、ジュリーニ、という人もいる。

 もちろん、両者とも素晴らしい演奏を聴かせてくれるのだが、kitakenはちょっと違うと思っている。

 クレンペラーはともかく、ジュリーニの演奏は特に(これは後日詳述する)。

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 私がこの曲に興味をもって、音楽の先生にCDを紹介してもらいに行ったのは中学生の頃。

 即座に「やめたほうがいい、難しいから」という答えだった。「難しい」という見解自体が、この教師はまったく音楽を理解していないのだという印象を与えるものだった。

 もっとも、中学2年生の私が聴く音楽ではない、ということだったのだろうし、音楽の成績が悪い私には土台理解不可能な世界だという、高尚なご意見だったのだろう。

 何と言っても、小学生から中学生にかけて、音楽の成績はずっと2。もちろん、2段階評価である(嘘)。

 小学生時代の音楽の先生は、バラライカの第一人者だったが、自らの音楽に絶対的な自信を持っているというのか、高慢なタイプの先生で、音楽の鑑賞時間もロシアの民俗音楽やそういった類のものが多く、音符やリコーダーの正しい使い方、歌唱の音程など、技術的なものの指導にしか関心がなかったようだ。

 楽聖と呼ばれる人たちの音楽を聴きたい、作曲とは如何なるものか、音楽とは人間にとってどのようなものか?

 そういったことに答えてくれる音楽の先生はいなかった。音楽とは何ぞやというものを全く教えてもらえず、音楽への嫌悪だけを増長してくれた。

 次第に音楽の教師というものに嫌悪感を持ち、やがて学校で習う「音楽」というものにも全く興味を持たなくなった。中学に入ってからも同じである。

 自分では、せっせとクラシカルな名曲を聴いていたというのに・・・。まあ、今思えば、いい加減で済まさず一生懸命取り組んでおれば、しがない研究者になってはいなかったかもしれない。

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 閑話休題。

 「荘厳ミサ曲」がわかりにくい、というのは、多分に演奏のせいもあるのかもしれない。

 私の最初の愛聴盤は、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルの60年代の演奏、ヤノヴィッツやルードヴィッヒ、ブンダーリヒを揃えた豪華な演奏だった。

 キリエの厳かで優しい慈愛に満ちた旋律、グローリアで展開される第9のドラマは、ニキビ面の青年の胸に熱く響いた。

 もっとも、クレドやベネディクトゥスは音楽の意味がまるでわからなかったし、アニュス・ディに至っては、あの終結の名人と言われたベートーヴェンにしては拍子抜けするほどあっさりとしており、突如として導き出される戦争ラッパと打楽器のリズムには妙な気恥ずかしさを覚えたものだった。

 カラヤンの演奏は、表面は美しいのだけれども、細部がおろそかで、たとえば楽友協会合唱団の絶叫調でうがいしているようなコーラスが耳につきだすと、気になって仕方がない。金管は含みがないし、打楽器は迫力に欠ける。リズムもだらしない。

 名曲案内の本で読んだら、クレンペラーが一番だという。

 クレンペラー盤を買うお金はなかったので、図書館で借りたが、最初はなんちゅう無骨な演奏じゃ、と思った。

 金管とか木管が溶け合わず、弦もはっきりと分離しており、合唱は地味で、テンポが何より遅い。

 しかし、カラヤンとは正反対で細部の彫りが深く、合唱は抑制された深い感動を歌っていることに気がつく。グローリアの最後、アーメン・フーガが終わったあと、4人のソリストが導き出す、合唱の壮麗な in gloria Dei Patris, Amen (父の栄光のうちにいわしたもう、アーメン)を聴いて、そのうねるようなコーラスの素晴らしさに深い感動を覚えた。

 クレンペラー盤の感動の深さ、というのは、聴いてすぐ分かる類のものではなくて、じわじわと、ジュンジュワーっと効いてくるもので、この盤を聴いてはじめてクレドやアニュス・ディの素晴らしさに開眼したといってもいい。

 しかし、これがベストかと問われれば、少し考えてしまう。申し分なく立派で、壮大。ベートーヴェンの偉大さが如実に立ち現れる。このような演奏芸術を前にして、圧倒されないでいられようか。

 しかし、ベートーヴェンの偉大さとは、そのような要素だけではない。もっと人間に訴えかけ、強烈な魔力によってわれわれを呪縛するようなドラマがあるはずである。そう、フルトヴェングラーがその偉大な体現者であったように。

 私に「荘厳ミサ曲」の意味を教えてくれた演奏は、ブルーノ・ワルターである。

 1948年のライヴ録音で、原盤はアセテートらしく、良好とはけして言いがたい。かつて、日本ワルター協会が出したLPは、音に艶があり、生々しさがあるとは言え、コーラスはぼけているし、ピッチが半音近く高く、今聴くと著しく抵抗がある。

 私がはじめて聴いたのは、音の悪い海外の輸入盤で、まあよくこんなものを忍耐強く聴いたもんだと感じる。とくに、ウラニア盤は劣悪だった。

 幸いなことに、Music & Artsが考えうる限り「最善」のCDを出してくれている。ピッチを修正し、状態の良い音源を繋ぎ、安定した音質で聴けるというものである。

 このレーベルの音は、鋭角がなく、のっぺりとした平板な音質になりやすいのであるが、もともとひどい録音状態なので、これは著しい改善だった。

 ワルターは宗教作品だから・・・などという前提なく、のたうちまくるベートーヴェンを聴かせてくれる。

 闘うベートーヴェン、成仏しないベートーヴェン、「苦悩を超えて歓喜へ」の世界のベートーヴェンである。

 キリエの最初、合唱の出だしからして、救いを求めて神に強く訴える楽聖の姿であるし、敬虔な祈りだとか、宗教的安らぎというよりも、魂への強い訴えかけに焦点を置いている。

 グローリアは凄まじい速さで始まるが、オーケストラは雄弁に語りかけており、合唱もホットに感情を込めて歌う。金管や打楽器は強打され、弦はすごいカンタービレを聴かせはするが、やりすぎという印象は全くない。

 グローリアという音楽は神の栄光を歌うものだろうが、人類賛歌のように聴こえるのだから凄い。

 アーメン・フーガも地中に大神殿の柱がズボズボと突き刺さっていくような、神の威厳を感じさせるし、終結のアッチェレランドも、こうであるべきだ。

 クレンペラーの大理石でできたダビデの塑像のような素晴らしさとワルターの生身の人間ダビテの姿とは、まことにベートーヴェンの偉大な作品の両面を描きつくしてやまない。

 そして、どちらにも共通するのは、神への祈りが、神への祈りに帰結しないことである。神への帰依ならば、崇高な美しさに終始するところだが、彼らの演奏は人間の魂を揺さぶり、私たちの矮小さをはっきりと示し、神を信じられない人間をむしろ肯定し、「神を信じるための戦い」と誘うのである。

 ベートーヴェンの荘厳ミサ曲のテーゼは、神を信じようとする人間の、精神の戦いだと思う。

 ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル (1960年代初頭、DG)    ★★☆

 オットー・クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管                           ★★★★★

 ブルーノ・ワルター/ニューヨーク・フィル                     ★★★★★  


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VALE46

私もワルターの演奏が好きです。
今にして思えば、モツレクとブラームスのドイツレクイエムとの出会いも、ワルターの演奏が初めてでした。残念なのは全てモノラルでしか録音が残されていないことですね。
by VALE46 (2010-04-05 01:25) 

kitaken

VALE46さま

コメントをありがとうございます。モーツァルトのレクイエム、ドイツ・レクイエムと、ワルターには名盤が少なくないですね。

ワルターが存命だった1961年に、バーンスタイン/NYPはマックルーアをプロデューサーとしてミサ・ソレムニスを録音しています。

不思議なことに、バーンスタインの解釈はワルターそっくりです。もちろん、若気の至りか、粗い箇所がたくさんあるのですが・・・。

スコアを参考にした可能性があるか、あるいは、ユダヤ系の指揮者の解釈がそうさせるのかはわかりません。そういえば、オーマンディーの演奏も素晴らしいものですね。
by kitaken (2010-04-05 16:48) 

yamazaki

Beethoven の荘厳ミサ曲は,個人的には Walter の
残した録音の中で 1, 2 を争う名演だと思っています.
初めてこの演奏を聴いた時,グローリアの最後のオー
ケストラ,合唱が一体となった凄まじい加速にはビッ
クリした事を覚えています.Walter の指揮技術はイ
マイチだった,みたいな事が書かれている文章を時折
見かけますが,実際にコンサートを聴いた黛敏郎氏に
依れば,ローゼンシュトック以上のテクニックだったそうですから,此処に限らず,大胆にテンポを動かし
ても,曲が崩れる事がないのでしょうね.
日本 Walter 協会の LP は聴いた事がありませんが,
Music & Arts の前に出ていた幾つかの CD は Urania
盤を含めて,どれもこれも同程度のかなり状態の酷い
音で,少しは音がマシになっているか,と微かな期待
を抱いて購入してはガッカリ,を繰返していました.
その点,Music & Arts 盤は,かなり改善されており,
更に (まだ少し高い気がしますが) ピッチも修正済み
なので,大分聴き易くなりましたね.
この曲で,その他で聴く CD はご紹介のあった
Klemperer & NPO, Kubelik &バイエルン放送響
の他に
朝比奈 & 新日本フィル,Szell & クリーヴランド
等です.個人的には所謂「古楽器演奏」はあまり好
きになれませんでした.特に気に入らなかったのは
Zinman & チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
です (この演奏が好きな人,ごめんなさい).

by yamazaki (2010-04-09 01:16) 

kitaken

yamazakiさま

いつもメッセージをありがとうございます。

ワルターの指揮は映像で見る限り(『カーネギー・ホール』のマイスタージンガー序曲や、モーツァルトのト短調)、とても見やすく、エレガントですね。

指揮技術が稚拙だ、というのは、ワルターにあまり好感を持たない評者の意見かもしれません。

少なくとも、指揮が稚拙だったとしたら、あの寄せ集めのコロンビア響からあそこまで温かい音、びっくりするくらいの名人芸を引き出すことは難しいのではないか、などと考えます。

yamazakiさまがご愛聴の朝比奈/新日本フィルは、以後BLOGで掲載予定です。

ジンマン/チューリヒ・トーンハレは、現在は実はなかなか気に入っておりまして、それについては今後の拙BLOGをご期待ください。
by kitaken (2010-04-09 23:02) 

kitaken

追伸

セルのミサ・ソレムニスは、クリーヴランド管の自主制作盤の中の一枚ですよね。

おそらく、もう入手は不可能なのでしょう。ネットで検索しても出てきません。素晴らしい演奏なのでしょう・・・。聴いてみたかった。
by kitaken (2010-04-09 23:36) 

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