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フルトヴェングラー/RIAS全録音集成 (Audite) 試聴記 [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]

 前回も採り上げたフルトヴェングラーのRIAS放送録音全集である。

FurtwanglerRIAScompleteRecordings.jpg

 片付けなければならない書類などが一段落したため、少し心のゆとりが出来、この全集も全てではないが聴くことができた。

 まず、今回のセットの目玉は、ベートーヴェンのエロイカ(1952年12月8日ライヴ)だろう。

 名演という方も多いが、TAHRA盤で聴く限り、どこかもどかしさを覚える演奏で、EMIへのスタジオ録音のほうが絶対的に素晴らしいと思っていた。

 今回のは極端なリマスタリングがなく、厚みがあり、柔らか味があり、音色にはドイツ的な暗さを持つものの、温かみを感じさせるきれいな音である。

 一楽章冒頭の和音、二発目の冒頭は一瞬だが人為的な音の「よじれ」が聴かれる。これはドロップアウトなのだろうか。本全集の諸曲(「運命」の二曲は最たるもので終楽章コーダのあたりなどアインザッツのたびにきかれる)に聴かれるのだが。

 最初は覇気のない音だ、と思っていると、次第に厚みを増し、演奏もヴォルテージが上がって熱を帯びてくる。うねるような音の厚みが物凄く、それでいて涼やかな管楽器の音色が美しい。

 ティンパニは万事控えめだが、再現部冒頭のように渋いが抉りを利かせた奏し方をする。こういうところがフルトヴェングラーの良さなんだろうな。コーダに至るまで力の95%で勝負しているような客観的な眼差しが素晴らしい。

 二楽章も暗い情念のような塊がドイツそのものだし、スケルツォもだぶつくような音の洪水が物凄く、この時代のベルリン・フィルの勢いというのはもう凄いとしか言いようがない。トリオはホルンの奏し方に癖がある。

 終楽章は格調高い指揮振りだが、たとえば、例の大休止とか、コーダのはっきりしないリズム感などは実演ならではのはみ出しなのだろう。少なからず抵抗はある。

 個人的には50年のエロイカよりも好きだ。その50年のエロイカもこの全集に収録されている。音質は同じくとても良好であり、聴き応えのあるものになっている。

 その他では、ブラームスの交響曲第3番、それも1949年のものが素晴らしい。年代の割に随分リアルな録音で、打楽器の迫力はスピーカーで再生すると家が揺れるようだ。近所迷惑だ、と母親に怒られてしまった。54年盤もいい。DG盤を持っているのならば、DG盤でも良いかもしれないが。

 また、ベートーヴェンの「運命」もいい。戦後初舞台の記録と最晩年の記録が残っているが、どちらも音がしっかりとしており、厚みもあり、特に後者はTAHRAのリマスタリングがメタリックで最悪だったので、余計に感銘を受けた。

 戦後初舞台である1947年5月25日のライヴ録音は、これまでは随分細身でヒステリックな演奏だろうと思っていたけれども、これだけの厚みがあると、凄みを増してくる。今の私には27日の録音よりも25日の録音のほうが心に迫る。

 標準的なのは、バッハの管弦楽組曲第3番やブルックナー。これらは、DGやEMIなどの盤で聴いても同じだろう。前者は音に明るさがないので、DGのほうが好ましいと感じた。フルトヴェングラーのブルックナーにしても、私は全く共感できるものではないので、違和感を一層強めたことを告白する。

 最悪なのは、ブラームスの交響曲第4番。音の上と下をばっさりとカッとして、中音域だけを聴いているかのような窮屈さ。音も冴えず、鮮度に欠け、こじんまりとした演奏に聴こえる。

 余計なリマスタリング(ノイズ・カット)をしなければ・・・とはいつも思うことだが、文句は言うまい。Auditeの仕事には少なからず良心が感じられる。ベルリン・フィルの奏者たちと公開の場で意見を交わすなど、演奏者の側に立った音作りを目指してきたことは注目するべきだろうl。

 完璧なものはない。だから、出来の良いものを選んで楽しめば良いのだと思う。


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フルトヴェングラー/RIAS全録音集成 (Audite) [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]

FurtwanglerRIAScompleteRecordings.jpg

 物凄いセットが登場した。

 フルトヴェングラーとベルリン・フィルによる戦後の名ライヴは、ファンならずとも、一般の愛好家にとっても垂涎のものと思われるが、それらのうち、ベルリンRIAS放送局に残されていた音源が全てCDに復刻される運びとなった。

 EMIやDGなども、これらの音源のいくつかを使用してLPやCDを作成していたわけだけれども、このようにダイレクトにマスターにアクセスしたことは近年の快挙といえる。

 愛好家にとって一番の関心は音質である。

 Auditeのリマスタリングは、コルトーとフリッチャイのシューマン(audite 95.489)でも経験していたが、ノイズ・リダクションやら、ピッチ修正やら、フィルタリングともいえる作業を行なうために、音色は人工的になり、均質感のあるモノ・トーンな印象になる。極端に言えば、鉛色の塊が飛び出してくるような感じだ。

 しかしながら、何十年も前の音源を、現代人にも聴きやすいように、そしてできるだけ鮮明で情報量多く、ということであれば、ある程度の「覚悟」は否めない。覚悟とは、ある程度の音色や臨場感を犠牲にしても、万人に納得のいくリマスタリングを行なうということである。

 その意味では、TAHRAやMUSIC AND ARTSのリマスタリングは万全ではなかったのかもしれない。前者は金属的かつメタリックな音がフルトヴェングラーではなかったし、後者はスケールが小さくなり、全体としてのっぺりとしたニュアンスに乏しい音になりがちだったからだ。 

 Auditeのリマスタリングはその意味で中庸である。リマスタリングという行為自体の賛否については私はノー・コメントとしたい。人によって、オーディオによって評価は変わるし、リマスタリングの全てが悪だとは思わないからである。

 結果として、この集成は、価格が手ごろであるだけでなく、「一貫した」信念に基づいてリマスタリングが行なわれており、全体として商品としてのクォリティーは極めて高いものだと言える。

 たとえば、戦後復帰ライヴの「運命」と、54年の最後の「運命」を聴き比べれば、そのリアルで、前面に飛び出してくるような迫力、音の情報量と密度の濃さに圧倒される。ノイズ・リダクションによって一瞬だが、ドロップ・アウトのように不自然な途切れが散見される(終楽章コーダ付近)が、これは仕方がないのかもしれない。

 ブラームスの交響曲第3番は49年のものと、54年のものの両方が収められているが、いずれも劣らぬ音質の「鮮明さ」である。特に前者はEMIから出ていた国内盤を聴いたとき、「なんちゅー、劣悪な音質だ!」といらいらしながら聴いたことを覚えていただけに、その直接的な迫力とリアルさに一瞬驚いたことを告白する。

 52年12月8日の「エロイカ」。これはArkadia盤を聴いていないから何とも言えないが、妙に硬質の音でもなく、妙に雑然とした汚い音でもない。柔らか味があって、人間が奏していることがわかるリマスタリングとなっている。TAHRAとは少なからず雲泥の差と言って良いかもしれない。その分、どこか軽い演奏に聴こえないこともないかもしれない。インパクトという面では後退が見られるからである。

 私はこのセットを手に入れて聴き薦めているうちに、「これくらいの音質で、しかも6000円台で、RIASの全録音が耳にできるのであれば、お釣りがくるアイテムだろう」と深い感銘を覚えた。

 しかしながら、同時に、もし、Auditeが「音質は何もいじりませんでした。ピッチの修正だけはしましたが、ノイズはそのままです。だって、放送録音だから当たり前でしょ?」というスタンスでこれらのセットを作っていたら、おそらく驚愕するほど感動しただろうに、と思うのであった。

 フルトヴェングラーの演奏の一番凄いところは、その臨場感にあるのだから。それはノイズ・リダクションされた音からは絶対に復元されない。それだけは確信できる。

 しかし、ノイズ・リダクションされずにこれだけのセットが登場する確率は極めて低いだろう。

 だから、満足するべきなのだ。

 要は、リマスタリングをフィルタリングすれば良い。自分の耳で。少なくとも私は、会場でどう聴こえていたかを想像しながら聴くことができるCDだった。その意味では満足している。


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謎の多い第9 [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]

 BLOG(及びHP)を休止しておりましたが(本当は閉鎖するつもりでしたが)、自分のペースでもう少し続けてみようかと思います。

 というのも、音楽のことについてあれこれと考えたり、あれこれと話をするのがやはり好きだからです。

 更新は鈍牛のような速度かもわかりませんが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、本日はフルトヴェングラーの第9、それも「もうひとつのバイロイト」と評されることもある、バイロイトでの1954年のライヴ録音を採り上げます。

1954BayreutherFurtwangler.jpg

 この録音は、Music & Artsからも発売されていますが、録音が劣悪なことが有名で、そもそも公式の録音は(フルトヴェングラー博士の強い要請により)存在せず、粗末なサウンドのプライヴェート音源が残存しているのみです。

 ヴォルフガング・ワーグナー氏は、この演奏をフルトヴェングラーの演奏史上でも最高のものと呼び、録音が残されていないことを悔やまれているし、吉田秀和氏もその著作のいくつかで回顧されています。

 正直、私にはわからなかった!

 ハーゲンが呪いの歌を歌っているようなウェーバーのバリトン、ポルタメントばかりのヴィントガッセンのテノール。エーデルマンやシェフラー、ホップやデルモータが懐かしくなった。

 さらに、ブロウェンスティンのソプラノも、シュワルツコップの気合の入った歌いっぷりには敵わないと思っております。

 日本フルトヴェングラー協会が「オリジナル音源を入手」と虚言(?←失礼!)を宣伝文句に書き、期待して聴いたものは数代目のコピーだった(会長により『音楽現代』誌上でその旨が書かれている)し、音圧を高めに設定し、迫力はあるものの、解消度・鮮度・情報量の点で従来盤と大きく変わるものではなかったように思われます。

 写真にあげたフルトヴェングラー・センターの復刻盤は、現存する最良のコピーを使ったと正直に告白した上で、非常に良好なサウンドを聴かせてくれた。

 演奏は、フルトヴェングラーの第9としては謎めいた内容だ。

 一楽章はテンポが遅く、力が抜け切った悟りの境地であることは今まで通りだが、何か枯れきった風情があって、ルツェルンの第9が健康的に感じられるほど。やはり、どこか魔力を感じる。

 再現部冒頭は打楽器の突出した録音のせいで、弦のフレーズがほとんど聴こえないアンバランスさだが、不思議に抵抗を感じない。

 二楽章も勢いに欠ける。というよりも、無理にドラマを盛り立てるということにはもはや関心がないような指揮ぶり。

 ドリーム・ライフの第9もそうでしたが、アンサンブルをきっちりと調えた上で、理性的な演奏を心がけている感がある。ただ、楽章終結に打楽器を一発加えているのは、この盤だけの現象なのでしょうか(←ご教示ください)。なくもがな、と思うのは私だけ?

 三楽章はひたすら沈潜していくような演奏で、花園や天界へ分け入っていくような解釈ではなく、生死の境を彷徨うような、何か霞を食べているかのような印象を受ける。録音が悪いから、というのではなく、何かこの世ならぬ演奏なのだ。

 それが感動的かどうかは理解に苦しむところで、第9のアダージョはこのような痛ましさを伴うものなのかどうか、それを受け容れることができるかどうかが、この演奏を楽しむポイントとなるでしょう。

 個人的には聴くのが辛かった。

 四楽章も打楽器の迫力は凄いが、テンポはずっしりと踏みしめるように重く、合唱団が入っても、落ち着いたテンポに変化はない。

 気力がないのか、覇気がないのかはわからない。これがフルトヴェングラーの一つの解釈なのであろう。ゆったりとしたテンポの裏にも、何か巨大なものが隠されているようで、深遠さを感じる。

 4人のソリストの出来がもっと良ければ、演奏自体の感銘はもっと深まったに違いない。ヴィントガッセンは美声だけれども、よく聴けば、ひどい歌い方。このような崇高な曲には不釣合いだろう。

 あの過激なコーダも、猛烈な加速というのではなく、すべての楽器が混合し、一つに収斂していくような不思議な錯覚を覚える。これがベートーヴェンの言いたかったことなのだろうか。

 個人的には、謎の多い演奏。この演奏の正体がつかめるような良好な音源が見つかれば、フルトヴェングラー研究にも大きな意味を持つことだろう。


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フルトヴェングラーの「田園」~やっと聴くことができたCC35-3163 [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]

 先日、中古CD店に出かける。

 中古CD店では、狭い通り道に座り込んでいる大きなリュックを背負っているご年配の方や、一人で棚を占領している人生の大先輩に辟易しつつ、遠目からCDを見ることにしている。

 目ぼしいものは特になく、さあ、帰ろうと思っていたところ、もう一軒あったっけ、と入った店があった。

 そこに新品未開封のフルトヴェングラー/ウィーン・フィルの第9(1953/05/31)、それもRODOLPHE(RPC 32465)があったので入手。

 数回聴いて失望。

 強烈な擬似ステレオによって音がぼわーんとしており、鮮度悪く、濁ったような音空間。弦と管楽器のバランスや、ソリストと合唱の迫真の歌唱など、感動的なこと多々なのだが、如何せんこれはひどい。フルトヴェングラーがかわいそうだ。投げつけてやりたい衝動に駆られたが、大切にしまい直す。

 最近、フルトヴェングラーのディスクでとびっきり感動したのは、これだ。

FurtwanglerBeethovenPastoral.jpg

 私は個人的にベートーヴェンの交響曲第6番を愛好するものではないのだが、フルトヴェングラーの演奏を聴いて感動したことがある。

 その時のディスクは、伊EMIが廉価盤で発売した全集中の一枚で、濃厚・芳醇なサウンドに魅せられたのだ。

 今でこそ、いろいろ悪口は言えるCDだが(イコライジングがきつい、音をいじくりすぎetc)、フルトヴェングラーの音を最新技術を使って、ステレオに負けないくらいの音質をつくろうという意気込みが素晴らしい。

 こういう姿勢は東芝EMIにはないだろう。

 初期CDファンの私は、写真のディスク(CC35-3163)を永らく求めてきたのだが、昨年も暮れに差し掛かって、拙BLOGをご覧頂いている愛好家の方がご好意で譲り受けることができた。

 この場を借りて、心より御礼申し上げます。

 一聴三嘆とはこのことで、古い全集盤(CC30-3361/66)では地味でモノクロだった当演奏が、極めて瑞々しく、ウィーン・フィルの色彩感溢れる音色で再現されている。

 このCDの感想を書くために、同曲同演異リマスタ盤を手にできる限り、比較試聴したのだが、群を抜いてこの盤が優れている。

 特に一楽章であの美しい主題が重層的にハーモニーを形作っていくところなど、うっとりするような夢幻があるし、柔らかい管楽器の響きも、ウィーンの森の野鳥とでも呼びたくなるような素朴な味わいがある。

 EMIの他の正規録音は、ことベートーヴェンに関していえば、弦の音にリアリティーがない。弦と弦がぶつかりあって絹ずれのような音の深みを出したり、軋むような木製の響きなどがオフ・マイクの録音のせいでややぼやけているのだ。宇野功芳氏の指摘する「きれいごと」の録音効果である。

 ワルターのSP録音などを耳にしていただければ、その差は歴然としていよう。やはり、当時のEMIの録音技術には首を傾げざるをえない。今一歩の生々しさが欲しかった。

 もっとも、初期LPからの板起こし(それも良質のもの)であれば、上に述べたような問題もかなり改善されはする。私が指摘したいのは、LPとCDでこれほどまでに違う音質を生み出すEMIの技術の問題であり、音源の確保という基本的なことをきちんとして欲しいのである。

 私の個人的な見解を述べれば、EMIの初期CDシリーズの中では、この「田園」が一番美しいと思う。響きも出てくる音もウィーン・フィル特有の味をまだ保持しているし、何より不自然さがない。

 ちなみに、この演奏で私が最も愛するのは「嵐」である。

 ジャニーズ事務所の五人組で、キャスター、ドラマ、歌手、バラエティーと様々な活動をし、SMAPに匹敵する人気を獲得しつつある人気グループだ。僕は動物好きな相葉氏に好感が持てる、というわけだ。

 ・・・もとい、四楽章のことである。フルトヴェングラーの棒はまるで魔法である。誰もあまり指摘しないが、こんなに凄絶でありながら、音が濁らず、それでいてけっして機械音楽のような整然さを感じさせない情感あるアンサンブルが何故可能なのだろうか。楽器の音、という以上に、まさしく精神の音が吹き荒れており、心にずっしりとした感動を与えるのである。

 大切に聴き続けたい名盤である。


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2009年の初聴きは? [ウィルヘルム・フルトヴェングラー (cond.)]

謹賀新年

旧年中は本blogをご訪問下さり、ありがとうございました。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 さて、皆様の初聴きは何でしたか?

 私は、と言えば、自分でも意外ですが、フルトヴェングラーです。

 大晦日はダウンタウンの番組や紅白をちらちらと眺め、家族水入らずで過ごしておりました。

 その後、親友と会い、午前三時ごろに初詣。

 誰もいない不気味な寺で開運祈願を済ませ、奇蹟的に営業していた場末の小汚いラーメン屋でラーメン。

 朝起きて、年始のご挨拶。お雑煮を食べた後、何故かフルトヴェングラーを聴きたくなった。

 ラーメン屋の店主がなかなか感じのいい人で、しかも全く期待していなかったラーメンがうまくて、「ラーメン界のフルトヴェングラーだ!」と思ったからだった(大嘘)。

 フルトヴェングラーの指揮したベートーヴェンの英雄をいくつか聴いてみた。

 で、今回とびっきり感激したのが、WINGというレーベルから登場した1947年の録音。

Furtwangler1947Eroica.jpg

 これは日本フルトヴェングラー協会が「グレード・アップ・シリーズ」という商標で市販したもの(WCD 200)であり、1947年にフルトヴェングラーがSPに録音したスタジオ録音である。

 SPからの復刻ではあるものの、ノイズも少なく、何より、輝かしい高音の艶と弦の厚み、迫真的に捉えられた打楽器の音が素晴らしい。高低の分離や音色も良好鮮明であり、モノラルであるのにステレオ的な臨場感すら感じられる。

 一楽章からノリノリで、たとえて言うならば、1952年の録音をさらに元気にした演奏と言える。深みでは一歩足りないかもしれないが、覇気があり、例の「ウラニアのエロイカ」に似た音のドラマがある。

 もっとも、「ウラニアのエロイカ」のような恣意的な音のドラマではなく、より客観性を増したものであって、有名な二つの演奏の長所(風格・深み・求心的な音のドラマ)を併せ持つ、これは本当に凄い演奏である。

 ちなみに、私は「ウラニアのエロイカ」が大嫌いで、買った盤のどれも満足した試しがない。演奏の物凄さは理解できるし、フルトヴェングラーを象徴する演奏の一つであることには反論するつもりもないが、あそこからはフルトヴェングラーの芸術がうまく伝わってこないのである。

 フルトヴェングラーをフルトヴェングラー足らしめるはずの深い思索や哲学的な間合い、優しく包み込むようなデリカシーといったものがやや後退し、激烈な音のドラマの方に焦点がある。それがこと「英雄」という楽曲に関しては、私の理想と違うのである。市販されている音盤のどれも音が悪い。評判の良いMelodiya盤やDelta盤でもその思いは払拭できない。まあ、根本的に私の嗜好と違うだけのことであって、批判するつもりは毛頭ない(念のため)。

 閑話休題。この1947年盤で惜しいのは、オーボエの音などが独特のウィーン訛りで、ちょっとフルトヴェングラーの音楽性とはズレるかな、といったところ。

 スケルツォの冒頭も、1952年盤のような、心の波立ちの表出までには至っておらず、フルトヴェングラーの棒はより直接的な音に関心が向いているようだ。

 それにしても、この時期のウィーン・フィルの美音は素晴らしい。それをこの盤は如実に音に再現できている。市販されているものなので、お薦めしたい逸品である。この1947年盤は知・情・意が見事に揃った快演であって、1952年盤を依然として愛聴するものの、この1947年盤も手放すことができなくなりそうだ。


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